ザダル (Zadar)
ザダル (Zadar、Zara、Ίδασσα (Idassa), (Iàdeira)) は、クロアチア西部、ダルマチア地方の都市. 約115キロほど南東にスプリトが位置している.
紀元前9世紀ころより、イリュリア人の集落が形成されており、徐々に都市へと発展していった. 前4世紀にはヤデル (Iader) と称されていた. ローマが前3世紀頃より地中海世界の征服を本格化させ、前1世紀までにこの地を征服し、ローマ風の都市が建てられた. 多くの建造物は現存していないが、中央広場付近にローマ時代の柱が残されている. 地勢上、カトリック世界と東ローマ世界の中間点付近に位置していたため、中世になるとフランク王国や東ローマ帝国の影響下におかれた. その後、10世紀よりクロアティアに編入された. 12世紀後半にハンガリー王国が領有するが、1202年、第4回十字軍を事実上率いていたヴェネツィア共和国に占領され、街は破壊と略奪に見舞われた(ザラ包囲戦). その後、ヴェネツィアはこの地を中継地として東ローマ帝国のコンスタンティノープルを陥落させ、東地中海の商業覇権を握ることになった.
1797年ナポレオンによりヴェネツィア共和国が滅亡し、カンポフォルミオの和約の結果、他のヴェネツィア領と同様にフランスからオーストリアに譲渡された. 1805年のプレスブルクの和約ではイタリア王国の一部となる. ナポレオンの失脚後は、オーストリア帝国に分配された. 第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が敗れたため、新たに建国されたユーゴスラヴィア王国の一部となるが、1920年のラパッロ条約によりイタリア王国に譲渡された. 第二次世界大戦後の1947年、イタリアと連合国の平和条約でユーゴスラヴィア領となる. 1991年のクロアチア独立後はクロアチア領となる. 独立に伴うクロアチア独立戦争では、セルビア軍の攻撃で大きな打撃を受けたが、その後復興が進んだ.
ザダルの防衛施設群は、世界遺産「16世紀から17世紀のヴェネツィアの防衛施設群:スタート・ダ・テッラと西スタート・ダ・マール」の構成要素として登録された(ID1533).
紀元前9世紀ころより、イリュリア人の集落が形成されており、徐々に都市へと発展していった. 前4世紀にはヤデル (Iader) と称されていた. ローマが前3世紀頃より地中海世界の征服を本格化させ、前1世紀までにこの地を征服し、ローマ風の都市が建てられた. 多くの建造物は現存していないが、中央広場付近にローマ時代の柱が残されている. 地勢上、カトリック世界と東ローマ世界の中間点付近に位置していたため、中世になるとフランク王国や東ローマ帝国の影響下におかれた. その後、10世紀よりクロアティアに編入された. 12世紀後半にハンガリー王国が領有するが、1202年、第4回十字軍を事実上率いていたヴェネツィア共和国に占領され、街は破壊と略奪に見舞われた(ザラ包囲戦). その後、ヴェネツィアはこの地を中継地として東ローマ帝国のコンスタンティノープルを陥落させ、東地中海の商業覇権を握ることになった.
1797年ナポレオンによりヴェネツィア共和国が滅亡し、カンポフォルミオの和約の結果、他のヴェネツィア領と同様にフランスからオーストリアに譲渡された. 1805年のプレスブルクの和約ではイタリア王国の一部となる. ナポレオンの失脚後は、オーストリア帝国に分配された. 第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が敗れたため、新たに建国されたユーゴスラヴィア王国の一部となるが、1920年のラパッロ条約によりイタリア王国に譲渡された. 第二次世界大戦後の1947年、イタリアと連合国の平和条約でユーゴスラヴィア領となる. 1991年のクロアチア独立後はクロアチア領となる. 独立に伴うクロアチア独立戦争では、セルビア軍の攻撃で大きな打撃を受けたが、その後復興が進んだ.
ザダルの防衛施設群は、世界遺産「16世紀から17世紀のヴェネツィアの防衛施設群:スタート・ダ・テッラと西スタート・ダ・マール」の構成要素として登録された(ID1533).